サバが痛い

よそはよそ!うちはうち!

ひとりになるということ

先日、お世話になったおじいちゃんが亡くなりました。親族でもなく、近所のおじさんのお父さんで、家族ぐるみで仲良くて小さい頃はおじいちゃんの家に遊びにいったこともあるくらいには仲良しでした。

おじいちゃんは戦争中は海軍の船に乗ってご飯を作ってたんだよって話してくれたんだけど、その時の話いつかちゃんと聞いてみたいなと思いながらも、私はいつの間にか大人になり、疎遠になってしまって聞かずにお別れになりました。

おじいちゃんは先に奥さんが亡くなって一人で暮らしてたけど、何かと一人は危ない、心配だと周りの人に言われ最後の何年かは施設で暮らしていたそうです。

 

去年、父も亡くなりました。

母と私と二人になって、父の部屋はぽっかり空いて、でも母がお稽古場にしたりして、穴は別のもので埋められました。父は読書と山登りが趣味でしたですが、亡くなる前、意識がはっきりしているときに捨てろ捨てろとほとんど捨てました。

視神経が病気にやられてもう見えることはないと主治医からも言われ、本だけではなく大切にしていたモーツァルトのCDたちもどうせゴミになるのだからと捨てるように言われましたが、こっそりとってあります。私は今でも交響曲第41番をきくとなんだか父の部屋から聞こえてくるような気がして懐かしくなるし、葬儀で好きな曲だったからと流していたアイネクライネナハトムジークの第一楽章をきくとしんどくなります。アホみたいに明るい曲なのに音楽の力ってすごい。私の時は清塚信也さんのアレンジして弾いてるビリー・ジョエルピアノマン流すからな。スキップしながら帰ってもらうんだ。

 

脱線したね。

父の葬儀の時に、色々な人から母へ「一人じゃなくて、娘が同居していてよかった。しっかりね」という言葉がかけられていました。それに対して、母は何ヶ月か経った暮れや新盆の時に「娘がいて、仕事行くからって何がなんでもいつもの家事をしなくちゃいけない。それがまた気が紛れて、目の前のことをやらなくちゃって気になってね、よかった」と話していました。

また新型コロナでステイホーム、人と会えない時期を経験して、そばに誰かがいるということを、改めて考えさせられもしました。話し相手がいる、困った時にやってくれる。美味しいケーキを半分ずつ食べられる。寂しい感情やしあわせな感情を共有できる。親子というだけの繋がりだけど、こんなに心強い繋がりってないよなとも思ってしまいました。離婚すれば夫婦は終わらせることが出来る家族だけど、親子は切っても切れない繋がりなんだよね。お母さん大好きなんだなって苦笑されるかもしれないけど、否定はしない。でも時々心の底から嫌いにもなるよ、娘なので。

 

順番的には母の方が先にいなくなるのだと思います。それはいつ起きてもおかしくないんだけど。人間だし。でもそこで私が一人になったら、本当に文字通り一人になるんだなって思ったらなんだか本当に悲しくなってきてしまった。子供が欲しいっていう感情がないので、結婚願望もそんなになかったんだけどね。

一人は嫌だなあって、ぼんやりと思っています。どうしたらいいんだろう。昔から長生きしたくはないけど、母が悲しむのは嫌なのでとりあえず順番は守ろうと思っているのは変わらないけれども。

生まれた時はあんなにたくさんの人に囲まれて幸せの真ん中にいても、死ぬ時は誰だって一人なんだから、それ以外の時くらい誰かとピザを分け合う人生の方がいいのかな。

 

センチメンタルな気分になっている、という話でした。その時はその時に考えた方がいいよね!